N = 1

今から23年前の1998年3月、開通直前の明石海峡大橋を歩いて渡るという開通イベントに、まだ幼かった二人の子を連れて家族で参加した。当日は好天に恵まれ、橋のたもとから2kmほど離れた地点からスタートし、明石海峡の海岸伝いに歩き、橋へと近づいていった。
スタート後しばらくして浜辺を歩いていた時、ふいに近くにいた老夫婦からカメラのシャッターを押してくれと頼まれた。渡されたカメラを見ると、それは偶然にも私が当時勤めていたカメラメーカーの10年程前のベストセラー機種のコンパクトカメラだった。(もちろんまだデジカメが存在しない時代のフィルムカメラである。)
撮影を終えたらこのカメラの会社の社員である事を伝え、お礼を言おうとしていたが、シャッターを切った瞬間、フィルムの巻き戻しが始まった。
カウンターを見ると16,7枚あたりで、12枚撮りにしては多過ぎるが、24枚撮りしては少な過ぎる。不可解に思ってカメラを見つめていると、撮影を頼んだ奥さんが慌てて近づいて来られ、「すいません、このカメラこうなってしまうんです。」と頭を下げられた。張力を検知してフィルム終了時の自動巻取りを行う機能が故障していたのである。
謝りたいのはこっちの方だった。
このメーカーの者ですとは言い出せず、一瞬言葉を失ってその場に立ち止まった私から老夫婦は去り、「あれはお父さんの会社のカメラだ」と子ども達に自慢する気にも到底なれなかったった。
ハードウェア量産品の製造や品質管理に携わるメーカーの人間なら、同じように作ったものでもバラつきが生じる事、またこのバラつきをいかにコントロールするかが量産の要である事は常識である。量産品の品質は、故障率や発生率といった「N個の母集団の中で何個発生したか」という確率の視点で語る場合が多い。
あの老夫婦のカメラは、もはや本来の寿命を過ぎ、正常なバラつき範囲を超えてしまっていたのかもしれない。ただ間違いないのは、あの老夫婦にとってあのカメラは、その品質を確率では語れない 「N = 1」であったという事である。
多くのエンドユーザーにとってN = 1である事を、モノづくりに携わる人間には決して忘れて欲しくないと思う。

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